やっちゃば・・・そのせりのかけ声の「ヤッチャ〜」から、ヤッチャバの名が起こったといわれている ■現在のやっちゃ場跡 ■やっちゃ場の歴史 ■やっちゃ場の文化
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link東京都中央卸売市場足立市場
昭和20年2月、現在の千住橋戸町に青果物と水産物を併設した中央卸売市場として開設。
その後都市化の進展に伴い、取扱量が増加したこともあって昭和54年9月青果部門を北足立市場に分離、現在は水産物専門の市場として開設している。



往時は参拾数軒の青物問屋が軒を連ね毎朝数千人の買出人でごった返していた所
江戸、東京の野菜の一大供給地
千住青物市場史
| 1576 | 天正4年 | 創設 信長時代 荒川を船で往来したにはじまる |
1720 | 神田、駒込、千住は三大市場といわれる 幕府の御用市場となる |
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| 1594 | 文禄3年 | 千住大橋が掛渡された。秀吉時代 | 1815 | 文化12年 | 千住の酒合戦 千住宿1丁目飛脚宿中屋の隠居宅 隠居六右衛文の還暦祝に行われた 主催したのは河原町の住人で、画家、俳人建部巣兆である 立会人には当代一流の文人達が 参加している 1位 9升1合 千住宿松勘 江戸市中の大評判となる |
| 1603 1604 |
慶長8年 | 徳川家康が江戸に幕府を開いた この辺一帯を河原町と称した |
1879 | 明治12年 | 東京府の許可を経て、その営業は益々隆昌を招いた |
| 1647 | 正保 | 千住大橋が掛替られた 三代家光時代 東照宮造営のため往来がさかんになり 材を惜しまず立派な橋を建造した |
1945 | 昭和20年 | 終戦後 現在は東京都中央卸売市場足立市場に発展解消し個人経営でなくなったが実にその期間369年に及んだ。 |
■やっちゃ場の文化
● 千住の俳人:建部巣兆
● 千住の彫刻家:富岡芳堂
● やっちゃばの俳人:為成菖蒲園
高浜虚子に師事し、一筋にホトドギスの俳徒として生涯を終わる
為成菖蒲園(本名 善太郎)東京都足立区千住河原町
明冶四〇年七月十六日生 昭和四八年七月二三日逝去 六六歳
| 昭和18年 千住へ高濱虚子を招き 句会が行なわれていた やっちゃば句会 ・菜屑掃く箒の先の春日かな ・永き日の古き歴史の市場かな ・外套をぬげば走り来持ちくれぬ ・今日はしも社頭に木の芽伸ぶことよ ・やっちゃばに飛び現はれし蝶は白 高濱虚子 |
千寿第二小学校在学中、宝井青波の「灯」とい俳誌を手伝ったことから俳句に興味を持ちはじめ、岡本機柳の門を叩き手ほどきを受けた。天舟子の号で「枯野」を投句していた。大正十年頃よりホトトギスの読者となり高浜虚子に師事し、一筋にホトドギスの俳徒として生涯を終わる
旧宿場町千住に育ち、こよなく千住を愛し、やっちゃば(青果市場)に生き、市場土間を、市場妻を、市場を詠じ続けた特異な俳人、庶民性豊かな文化人であった。
いつも着物で兵児帯をぐるぐる巻きにして、お相撲さんのような草履をはき、頭髪は 黒々として、ノソリノソリと歩く 大男というにふさわしい風貌。市場のせり売りで鍛えられたか、嗄がれた声で「ソーブエン」と尻上がりの句会での名乗りは魁偉であり、一杯に開いた双手をまともに打ち合わせ最後まで止めない大きな拍手、写真撮影には 必ずといいいいほど主体の隣りに立つ。ぶっきら棒だが、明るく笑顔を絶やさなかった。氏のある処常に 哄笑が湧き、俳人菖蒲園としての面目を発揮して誰にも親しまれた。
高浜虚子と菖蒲園
・大正十年ころよりのホトトギスの読者となる
・大正十五年 高浜虚子・池内たけしの指導を受ける。昭和十九年ホトトギス同人に推薦される
・昭和二年初めて虚子選に入る
・昭和七年池内たけし(虚子甥)を主宰「欅」創刊と同時に読者となる。堀切菖蒲園にたけしと吟行した折
「菖蒲園」の雅号をつけて戴く
・浅草探勝会等虚子選の句会に参加し、潮花句会や千住句会などを指導し亦、市場関係の人々を集めて
やっちゃば句会(虚子命名)を創めた
・昭和十八年四月二十日には 大喜青果市場に虚子先生のご来駕をいただき句会をもつ
この時の虚子先生の句は半切に書いて戴き保存されている。 他
・昭和十九年第二次世界大戦により「欅」休刊となる
・昭和二九年「欅」を高橋春灯徒と共に復刊し その編集にたずさわると共にホトトギスに意欲的に投句を続ける
虚子が戦時中信州小諸に疎開していた折、東京下町住の俳人連の應援で、なにかと物資の補給を受けたことがあった。中でも大喜主人の菖蒲園は大変貢献していた。
ホトトギス・子規から虚子へ
ホトトギスは鳴くときに口中の紅色が 鮮やかに現われ、泣声も血を吐いてい苦しんでいるように聞こえる。正岡は 子規と号し、結核で血を吐きながら俳句を作り続けた。
俳句雑誌「ほととぎす」は 明治三〇年 正岡子規の友人柳原極堂により刊行され、明治三一年高浜虚子へと受け継がれ 三五年にはカタカナの表記。昭和初期には 俳壇の主流となり 昭和二六年には 高濱年尾が主宰 百年以上、一〇〇〇号をこえる歴史を刻む