千住学校統廃合 平成13年9月 総合新校の校名の候補が決定(総合地域協議会(千住中央より)
| 千寿小学校と 千寿第二小学校 |
千寿第四小学校と 柳原小学校 |
第二中学校と 第十六中学校 |
第三中学校と 第十五中学校 |
| 千寿小学校 (せんじゅしょうがっこう) |
千寿常東小学校 (せんじゅじょうとう) |
千寿桜提中学校 (せんじゅさくらづつみ) |
千寿青葉中学校 (せんじゅあおば) |
足立の小学校・中学校の統合,廃校
H13年度 入学者ゼロ、かたや生徒急増 トイレ,水道と施設が改造されないまま
学校が変わろうとしていますが 問題も多そうです
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公立の学校ができるまで
寺子屋
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明治の中頃まで大半は私立学校
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尋常科四ヵ年が義務教育と定められ 教員数や施設の面などがむずかしくなり
明治20年代になると区内の私学は姿を消してしまった
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最古参 公立千寿小学校命名(昭和49年に100周年を迎えた)
区内に「第一」と名のつく小学校が外に6校
区内の中学校にも 番号名が多いが 一中から十四中までは 昭和22年の新学制による同時開校
当時の時世柄ほとんど間借校舎で開校し、本建設がどの町に作られるかもわからない状態であった
妙な話しだが「十二」以上の番号がついている中学は 日本中どこを探しても 足立区以外は見当たらない
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sinの母校 足立区千寿第二小学校
明治42年11月11日 「東京都足立区立千寿第二小学校」開講
2002年 平成14年 創立92年 通称さくら土手小学校 「千寿第二小学校」の名称が終わりを告げます
sinと姉妹4人、sinの娘と息子も 千寿第二小学校の卒業生
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「千寿」の名称の由来(足立史談、足立風土木より)
室町幕府の八代将軍、足利義政の妻の一人に「千寿の前」という人がおり、その人の出生地であったことから「千寿」と呼ぶようになったと言う説がある。この他にも千手観音や千葉氏一族が住んでいた千葉住村と称し、のちに千住村に改められたという説もある。
また、学校名については、明治7年3月、現千寿小学校の前進といえる「私立千寿学校」が設立された。その後に設立された千住地区のがっくには「千寿」の文字が使われるようになったとされている。
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足立区千住の教育の歴史
千住の寺子屋
1716〜35年にはじめての寺子屋ができたと言われます。千住仲町 源長寺の筆子塚碑文に残されている多坂梅里(たさかばいり)の寺子屋。掃部、河原、小塚原の間で、男女や年齢に関係なく50年にわたる。多坂梅里の寺子屋では、書き方読み方、しつけもきびしく教えました。そろばんを教えたところは、四十一の寺子屋中、5,6けん。
足立の公立学校
明治7年4月、千住にはじめて、公立学校として千寿小学校ができました足立区では、一番古い小学校です。
足立の私立の学校
明治15年、区立の私立小学校は、11校、千住では6校あり、寺子屋からのつながりが、まだ続いていました
明治時代
明治42年11月11日 千寿尋常高等小学校から、児童がうつり 千寿第二小学校ができました。
そのときの人数は、およそ930名、16学級でした。校舎は、木造2階建 行程からは富士山が見えました。
大正時代
千住町は人口がふえ、とくに関東大震災の後、学校に通う子供の数もふえ、さらに、尋常小学校が3校建てられました
実業補習学校
明治の終わりから大正時代には、小学校を卒業した人は 実業補習学校で勉強しました。補習学校は、それぞれの町や村に1校ずつあり1年間を通して、または冬の季節だけ、おもに夜間に勉強しました
千寿第二尋常小学校
昭和9年9月 子供達は1887人、組の数は32 先生30人
東京都千寿第二国民学校
昭和6年 戦争が激しくなると、小学校は国民学校と名前が変わり、戦争を考えたものが多く、遠足は西新井大師。
戦争に勝つことや兵隊さんの無事を祈る事も学校行事のひとつでした。
戦争が長びくと、わかい人たちは、ほとんど兵隊となり、工場では中学生や女学生が働きました
学童疎開
昭和19年になると、大都市の子供達を、空襲の危険から避難させ、千住第二国民学校でも、8月16日に3年以上618人の子供達が、長野県野沢温泉に集団でそかいしました。
東京大空襲
昭和20年3月10日、アメリカのB29爆撃機が300機ぐらい東京の上空にあらわれ、2時間あまりの、爆撃をくわえました。
4月13日から14日にかけての空襲では、足立区は大きな被害をうけました。
疎開から帰って
昭和20年11月、子供達が 疎開から帰ってきましたが、東京は焼け野原、千寿第二小学校の校舎もありません。
千寿第八小学校で男子、女子が2組に分かれ 2学級で勉強しました。
なにをするにも おなかがぺこぺこで、体育の授業もできないこともありました
昭和22年 アメリカから救援物資が届いて、給食が始まりました
千寿第二小学校の復興
昭和23年3月10日 8教室 木造平屋建ての校舎ができあがりました
車がないので、それぞれが、重い木製の2人用の机の上に腰掛けをのせ 千八小学校から千二小学校まで運びました
昭和34年