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 千住大橋
上手の下り専用の旧橋が完成したのは 昭和2年の春。
それまでの木橋から鉄橋となる。
長さ92・5メートル 幅24・2メートル 
橋脚なし総アーチ型 上り専用(新)と下り専用の二橋になっている。
橋の構造としては我が国最古の タイド・トラスト橋です。
中央に「大橋」の橋名板がかかっている
上になにもつかない大橋である荒川架橋代1号 
大橋といえばこの橋しかなかったプライドであろうか
2番目の両国橋より60年前にのことになる

 2005.1月〜3月 千住大橋 下り 舗装工事

 


  

   


 千住大橋の歴史

今も昔も足立の表玄関は千住大橋。その大橋の歴史は古い。
最初の橋がかかったのは徳川家康が入府してから4年後の文禄3年(1594)11月のこと。
隅田川筋では最も古く両国橋は60年後に架けられている。
ともあれ、昔の旅人にとってこの橋を渡ることは江戸を去る第一歩であり、また江戸入りの第一歩でもあった。

錦絵「日光御街道千住宿
日本無類楠橋抗之風景本願寺行粧之図」
 橋本貞秀画 慶応元年(1865)
錦絵「名所江戸百景 千住の大橋」歌川広重(初代)画

この最初に架けられた橋は、京間で長さ66間、幅4間 柱杭は槇(まき)とあるから当時の大工事である。
しかも位置は現在よりも、約200メートルほど上流であったという。
それというのも架橋以前に、ここに「渡裸(戸田)の渡」があり、奥州への古道が通じていたからといわれます。
この架橋の工事奉行は伊奈備前守忠次(1550〜1610) 伊奈氏はは後年関八州郡代としえ幕府領地の総支配をした家柄。忠次はその初代で利根川・荒川の流路つけかえをした治水土木の大家である。この忠次にとっても千住大橋架橋は 難工事であったらしく、熊野権現(現・南千住6-70)に七日間の断食祈願して、ようやく完成したといわれます
これが機縁で、守護神熊野神社
の社殿は、橋の架替毎に、その残材を以って建て直すことが慣例となったとのこと。

大橋架橋による千住の発展
江戸防備の建前から河川架橋にはとくに慎重であった家康が、この大橋架橋に入府後早速着手したのはなぜだったのかは不明である。この大橋架橋によって千住の地が東北地方のへの起点の立場がはっきりしたことは、間違いない。
後年江戸四宿の一宿に指定されたのはこの時に定まったのも同様である。
大橋の架橋後 千住はめざましい発展をとげていく
毎年4月になるとこの橋を通る人馬の数はおびただしかった。
一つは日光東照宮の例祭に参列する諸大名外の一行である。
4月17日が家康公の忌日であったのでこの前後に往来する行列が集中した。
二つには、この季節が諸大名参勤交代期であったので,江戸入りの殿様あり,帰国の殿様ありでこの橋を通る諸侯は東北常総64家とあるから、日光参拝とからんで千住宿がごったがえしたことは想像される。

江戸一の名橋だった千住大橋

江戸時代を通じて一度も流出したことがなく多くの人から名橋と謳われるようになりました
近くは安政2年10月2日夜 四ッ時の安政大地震で「千住大橋ことごとく大破」と資料にあり、
明治18年の台風でついに流されますが、その時点でも創架以来の杭木が9本も残っていたということです

この橋は、創架以来明治18(1885)年7月1日の洪水まで、一度も流出することがなかった。
いわば江戸三百年を生きぬいたことになるわけです。
明治後半から大正時代の大洪水には、なんとか持ちこたえ、その後,再び木橋が架けられ,大正12年の震災にも焼け落ちなかったが,震災復興計画に基づいて,昭和2年(1927)タイドアーチ橋に架け替えられ,昭和2年の春、鉄橋に変わる。
昭和48年 日光街道の交通量の増加から、並行してもう1本鉄橋が架けられ、上りと下りを分離し現在に至っている

千住大橋は、江戸幕府の崩壊と新時代の到来をも見ていた
慶応4年4月11日(1868) 未明黒木綿の羽織に小倉袴の旅姿でわずかの供廻りをつれて、大橋を渡ったのが、幕府最後の将軍徳川慶喜。上野大慈院の一室から 水戸をさいての謹慎の旅であった。
奇しくも,隅田川にはじめて渡された橋が,幕府の滅亡とともにその姿を消したことになる。
そしてその後を追うように明治夜明けの風がふき流れたのである

芭蕉と千住大橋

千住宿が日光街道の初宿となったのが寛永2年(1625)のことであるから、芭蕉が旅立った時には、もう60年経っていたことになる。
大橋は陸の関門であったが、この川岸は船の発着場でもあった。橋の下手には将軍用の船着場があり,上手に一般の船溜りがあった。
俳聖松尾芭蕉の「おくのほそ道」の第一歩もここからであった。元禄2年(1689)3月27日(今の5月16日)芭蕉46歳の時である。
日程が本文と7日程違っていることが、昔から話題をまきおこしているが、栃木県那須の温泉神社の神官人見家に曾良、日記写本には、「千住ニ揚ル7日間逗留」と付記されて、ご丁寧に日数ののつじつまが合わされている。こんなことから芭蕉翁千住宿滞在説が生まれ、その道の研究家などから時々その関連記録が残っていないかなどの問い合わせがあるのも無理からぬ始末である。

*****千住大橋の掛け替え*****
正保4年(1647)正月
寛文6年(1666)3月
天和4年(1684)
享保3年(1718)正月
宝暦4年(1754)
明和4年(1767)
明和3年、6月29日7月朔日までの大雨にて三尺に余る増水にて橋は墜落し、長さ4間ほどの高欄干が両国橋杭に漂着したとある天明4年(1784)この時、200メートル下流の現在の位置に移ったのである。
 都電が走っていた1960年代の千住大橋(足立史談会)
***** 江戸五橋 *****
千住 大橋   
永 代 橋   
両 国 橋   
吾 妻 橋   
新 大 橋   

***** 千住大橋に関係する人々 *****
徳川家康
徳川家康がすぐれた政治家であったひとつの理由は、街道整備を急いだことである。慶長5年(1600)関が原の戦いに勝利を収めるや、政治、経済、軍事上のの大動脈である諸街道の整備を急務とした。慶長6年(1601)に東海道を、よく7年には中仙道,奥州街道を、さらに甲州街道を整備し駅制を実施している。
江戸時代以前の関東は未開発のところが多く、この南下する河川は年々洪水を起こし、ながれが変わるとそこに沼や沢がいたるところにできて、関東平野を不毛の地としていた。天正18年(1590)、豊臣秀吉は、小田原の北条氏を滅ぼし、全国を統一すると、徳川家康に関東8ヶ国を与えるという話があった。これを聞いた徳川一党は、関東が水害と不毛の地であると不服で反対したといわれる。しかし 家康の信任が厚かった伊奈備前守忠次の推進によって、江戸へ入府したといわれる。

日光街道を日光道中ともいう。日本橋を起点とし日光に至る二十一宿(二十三宿)をいう。

伊奈備前守忠次1550〜1610)
 伊奈氏は土木工事を得意とし、江戸に着くとすぐその足で利根川を視察し、地勢と水脈ををつぶさに研究し、当時とすれば前代未聞の大構想をうちたてた。その子忠政、忠治によって受け継がれ65年目に関東を流れる川はすっかり様子が変わってしまい、関東の水害も少なくなった。その結果、新田の開発はおおいに進み、約10万石の大増産に成功したのです
農民や江戸町民には神仏のように敬まわれ、ときには幕府の職制を超えて騒動の処理にあたりました


石出掃部介吉胤
 千住の開拓者
掃部提を築き、掃部宿を開発。1594年の千住大橋架橋工事に協力し1598年に千住に移り掃部新田を開発。元和2年(1616)には掃部提の築造も開始。翌3年5月完成 総長約2KM 高さ4Mの大土木工事。現・宮元町・仲町・東@・2丁目の一部がそれである。幕府はこれらの業績に対し千住一円拝領のお墨付きをあたえました。吉胤はこの築提に精魂を尽くしててかこの翌年死去している。大正5年2月、郷土開拓の功労者としてとくに従五位を追贈されている。なお石出家は代々名主役を勤め、当町内に子孫の方が住んでいる

松尾芭蕉
 寛永21年(1644)伊賀上野(一説に柘植)にて生まれる。
 元禄 2年(1689)46歳。門人曾良を同伴し、奥の細道へ旅立つ。
 元禄 7年(1694)51歳。大阪にて没する。
 元禄2年3月27日(太陽暦で5月16日)ごろ千住を歩き出したと推測される。

15代将軍の慶喜
江戸を追われてこの橋を渡り水戸へ向かった。という徳川家15代の因縁のある橋


LINK
「江戸・東京の橋たちをウオッチング!」 ・・江戸時代の隅田川橋梁群・・現代の隅田川橋梁群 千住大橋
鬼平犯科帳と千住大橋