千住大賑い会
千住大橋の歴史と文化

●:千住大橋の歴史 ★:関連した出来事

★1573〜1592(天正年間) やっちゃば成立
★1590(天正18年)07・13 豊臣秀吉小田原城入城し徳川家康に関東六カ国を与える。
★1590(天正18年)08・01 徳川家康、関東に入り江戸城を根拠とする。[徳川実記]

●1594(文禄3年)09 伊奈忠次、石出吉胤の助力で千住大橋架橋。[天寛日記]
 この年から千住大橋の上で夜に綱引きが始まる。[旧考録]

★1597(慶長2年) この年、千住宿が宿駅に指定される。[旧考録]
★1598(慶長3年) 石出掃部介吉胤掃部宿開発開始。[新編武蔵風土記]
★1600(慶長5年)07〜09 関が原の戦い この年、伊奈忠次備前守に叙任される。
★1601(慶長6年)01 徳川家康、伝馬制度を設ける。
★1603(慶長8年) 徳川家康、征夷大将軍となり幕府を開く。
★1614(慶長19年)10 大阪冬の陣
★1615(元和元年)04 大阪夏の陣
★1616(元和2年)04 石出吉胤掃部堤築造開始。[旧考録][新編武蔵風土記]
★1616(元和2年) 徳川家康没す。

●1617(元和3年)04・12 千住大橋入間川洪水で流出しそうに。[東武編年録]

★1617(元和3年)04・08 徳川家康、駿河国久能山から日光山に改葬。
★1617(元和3年)04 徳川秀忠、初の日光社参で千住を通過。[徳川実記]
★1617(元和3年)05 掃部堤完成。[新編武蔵風土記]
★1624〜1644(寛永年間)
 この頃より、東叡山日光門主の日光参詣が行われるようになり、
毎年04月12日・09月7日・12月25日千住宿で休息をとり登山する。[旧考録]
★1625(寛永2年)07・13 徳川家光、日光社参のため江戸を出発。[徳川実記]
 この年、千住宿が日光街道の初宿に定められる。[旧考録]
★1628(寛永5年)04・13 徳川秀忠、日光に出発。(04・21帰府)[徳川実記]
★1634(寛永11年)02・07 徳川家光、千住・島村付近で鷹狩り。[徳川実記]
★1635(寛永12年)06・21 幕府、武家諸法度修正諸侯参勤交代の期を4月に。

●千住を通過したであろう参勤交代の奥州各藩大名:寛永6年(1794)近世大名家配置(5万石以上)による
南部家(外様・10万石・盛岡)、伊達家(外様・52.5万石・仙台)、相馬家(外様・6万石・中村)、丹羽家(外様・10万石・二本松)、松平家(親藩・23万石・会津)、秋田家(外様・5万石・三春)、安藤家(譜代・5万石・磐城平)松平家(譜代・11万石・白河)、小笠原家(譜代・6万石・棚倉)、佐竹家(外様・20.5万石・秋田)、戸沢家(外様・6.8万石・新庄)、酒井家(譜代・14万石・庄内)、秋元家(譜代・6万石・山形)、上杉家(外様・15万石・米沢)、内藤家(譜代・5万石・本庄)、溝口家(外様・5万石・新発田)、戸田家(譜代・7.7万石・宇都宮)、徳川家(御三家・35万石・水戸)牧野家(譜代・8万石・笠間)、土屋家(譜代・9.5万石・土浦)、土井家(譜代7万石・古河)、久世家(譜代・5.8万石・関宿)、堀田家(譜代・11万石・佐倉)

★1638(寛永15年)03・19 徳川家光、葛西での鷹狩りの途中、千住で昼食。[徳川実記]以後しばしば鷹狩に。
★1642(寛永19年)04・11 幕府、日光社参のため千住など日光道中宿駅に宿賃等を定めた高札設置。[徳川実記]

●1647(正保4年)01・14 幕府、小姓組三上孝正・川口正信を奉行として千住大橋(小塚原橋)を架け替え。[正保録] [徳川実記]

★1648(慶安元年)03 日光街道宿駅に日光社参に際し直訴の禁止・防火・治安維持などの法令を出す。 [徳川実記]
★1648(慶安元年)04・13 徳川家光、日光社参に出発。(04・23帰府)[徳川実記]
★1649(慶安2年)03・16 徳川家光、日光社参を行い、千住・越谷・草加などを旅館に指定。[徳川実記]
★1649(慶安2年)04・10 徳川家綱、日光社参に向かう途中、千住宿に泊まる。[徳川実記]
 帰路、04月23日千住にて休息。[徳川実記]
★1655(明暦元年) この頃、千住村を一丁目〜五丁目に分ける。[旧考録]
★1657(明暦3年)01・18 江戸で明暦の大火。千住・品川では仙台藩の伊達忠宗の家士が警備。[徳川実記]
★1658(万冶元年) 幕府、千住堤外川原の家並み続き地を、掃部宿・河原町・橋戸町として千住宿に加宿。[旧考録]
★1660(万冶3年) 千住宿の願いにより、小塚原町・中村町が加宿され、「千住八ヶ町」と称する。[旧考録]
★1663(寛文3年)04・13 徳川家綱、日光社参に出発。(04月24日帰府)[徳川実記]

●1666(寛文6年)代官伊奈忠常が奉行し、千住大橋の架け替え着手。[町触]

★1670(寛文10年) この年、幕府作事方大棟梁甲良宗清が千住に屋敷を設ける。[甲良屋敷碑文]
★1673〜1681(延宝年間)
 この頃、牢屋奉行石出吉深が千住に隠居し、屋敷を設け常軒と号する。[新編武蔵風土記]

●1683(天和3年) 伊奈役所で流失木材の入札を行う。
9月 関東郡代伊奈忠篤千住大橋架け替え着手。[参考録余] [町触]

●1684(天和4年)07・16 関東郡代伊奈忠篤、千住大橋の架け替えに伴う不要木材入札希望者の参集指示。[参考録余] [町触]

●1684(天和4年) 三橋飛騨守を奉行に千住大橋を架け替え。[旧考録]

★1689(元禄2年)03・27 松尾芭蕉・河合曾良「奥の細道」に旅立つ。
注意:曾良日記によると03月20日に千住で舟から下りるとある。

★1701(元禄14年)03 赤穂藩主浅野長矩、殿中にて吉良義央を傷つけ自刃。
★1716(享保元年)09・11 幕府、江戸周辺の鷹場を再配置。[徳川実記]
 同年9月27日、鳥見役を再置する。[徳川実記] 以降、徳川吉宗しばしば鷹狩りを行う。
★1721(享保6年)02・19 町奉行大岡忠相、千住大橋〜上豊島村間の荒川を留場とし、白魚漁を佃島名主忠兵衛に免許。一手限とする。[御場御用一件][順立帳]
★1728(享保13年)04・17 徳川吉宗、日光東照宮に参詣。[徳川実記]
★1733(享保18年) この年。幕府新田検地を施行。千住宿・加兵新田は検地奉行筧(播磨守)正鋪。[旧考録][新編武蔵風土記]
★1735(享保20年)03 千住掃部宿市場、関東郡代伊奈忠辰により公認され、幕府御用市場となり河魚・蓮根・慈姑・土物(芋類)を献上。
★1740(元文5年)12 徳川吉宗、鷹狩りの際千住「ぢぢが茶屋」に立ち寄る(光茶釜)。[旧考録]
★1743(寛保3年)01・20〜02・14 幕府、両国橋改架に当たり千住大橋の構造を調査。[千住大橋杭大サ見分覚両国橋掛直御修復書留]
★1748(寛延元年)02 幕府、江戸払の範囲を、千住・品川・本所・深川・四谷大木戸より内と定める。[諸国要典]
★1750(寛延3年) この年、徳川家重が大猷院公(徳川家光)百回忌の際、千住宿を通行。[足立区郷土史年表]

●1754(宝暦4年)02・19 幕府、小普請奉行小幡景利を奉行とし千住大橋を架け替え。[徳川実記]

●1766(明和3年)06・28 隅田川増水で千住大橋が流出。[出水一件]

●1766(明和3年)06〜08 度々の出水で千住大橋が落ち、橋材が川上に流出。役舟の鯨舟二隻で浅草蔵岸に材木を係留。[御府内備考]

●1767(明和4年)06・07 幕府、千住大橋を架け替え。[徳川実記]

★1772(明和9年・安永元年)02・29 目黒行人坂より出火し、千住掃部宿まで延焼。千住大橋は残る。(明和9年大火)[北叟遺言][ 増訂武江年表]

●1772(安永元年)10 千住大橋が大破、幕府から千住宿に普請請負を命じ、費用として11月01日より10か年、千住大橋の渡銭徴収を命ず。[明和撰要集]

★1776(安永5年)04・18 松平定信、日光社参警護のため千住・梅田・竹塚を通行。[霞の友]
★1776(安永5年)06・16 大和長谷寺の大僧正、日光社参の際、千住二丁目慈眼寺で休息。[旧考録] 以後しばしば利用。
★1785(天明5年) この年から、佐渡金山の水替人足の護送が千住宿を通るようになる。[千住宿と足立]
建部巣兆、千住藤沢氏の養子となり、藤沢平右衛門と名乗る。この頃より千住に居住。
★1788(天明8年)12 評定所、江戸府内の範囲を千住・板橋・本所・深川・四谷大木戸・品川より内とする。[諸国要典]

●1793(寛政5年)12・06 千住大橋修復完了。[続徳川実記]

●1860(万延元年)03・12 幕府、千住大橋や隅田川等の川筋の取り締まりを命じ、大橋詰に小屋を設け、代官・手代が駐在。[藤岡屋日記]

★1866(慶応2年)07・10 幕府、千住・品川・内容新宿・下板橋・新宿の江戸府内への五改所を廃止。[幕府目付方御書付留]
★1867(慶応3年)03・13〜04・01
 鳥羽・伏見の戦いに敗れ関東に戻った近藤勇が、甲陽鎮撫隊(元新撰組)隊員と共に五兵衛新田金子佐内宅に留まり、その後流山に退く。[金子家文書]
★1867(慶応3年)12・26 幕府、千住・品川・内容新宿・板橋・岩淵の改所を復活。[続徳川実記]

★1868(慶応4年)04・08 徳川慶喜、千住を経て水戸に向かう。[復古記11]

★1868(明治元年)09・08 明治と改元し、一世一元の制を定める。
★1872(明治5年)04・29 千住より水戸を経て陸前岩沢に至る道を、陸前浜街道と称することとなる。[東京市史稿 市街地編52]
★1872(明治5年)10・08 千住〜宇都宮間に運輸馬車会社が営業を開始。[東京市史稿 市街地編53]]
★1876(明治9年)02・12 千住より松戸を経て千葉県庁に至る官道を改定し、本所竪川より市川村を経て千葉県庁に至ることとする。[東京市史稿 市街地編58]
★1876(明治9年)06・02 明治天皇、奥州巡行の際、千住三丁目中田屋で休息。木戸孝允なども訪れ、同町はじまって以来の盛儀となる。[足立区近代史年表]
★1877(明治10年)02 警視局掲示板を千住北組堤より千住大橋際へ移す。[東京市史稿 市街地編59]
★1877(明治10年)06  千住町にできた区医出張所管理を東京府から森静雄(鴎外の父)に命ぜられる。[鴎外研究年表]

●1878(明治11年)09・15 暴風雨で荒川・綾瀬川が大増水し洪水となり、千住大橋損傷。[東京市史稿 市街地編61]

●1879(明治12年)01・17 前年の洪水で被害を受けた千住大橋の修繕費下げ渡しが決定。[東京市史稿 市街地編62]

★1881(明治14年)10・23 森林太郎(鴎外)医師開業免状下付願を東京府へ提出。[鴎外研究年表]
★1884(明治17年)08・24 森鴎外、ドイツ留学のため横浜港を出発。(1888年9月8日帰国)[鴎外研究年表]

●1885(明治18年)07・01 大暴風雨と高潮により隅田川が大洪水となり、千住大橋の一部・吾妻橋・戸田橋などが流出する。[新修足立区史・下]

●1885(明治18年)11・30 千住大橋修繕落成、開橋式を行う。[東京市史稿 市街地編70]

★1885(明治18年)
 運輸馬車の運輸区間が、千住〜栗橋間となる。[新修足立区史・下]
隅田川蒸気船繁盛。千住大橋〜吾妻橋間を五区に分け一区間1銭で、一銭蒸気と親しまれる。[10・23読売新聞記事]
★1886(明治19年)03 荒川堤の補修が完成し、これを記念して桜苗を植樹する。[足立区近代史年表]
★1891(明治24年)6月、清水謙吾江北村村長らにより荒川堤の修理、里桜植栽が完成。『昭代楽事』が著される。[足立史談]
★1907(明治40年) この年、千住町に電気が引かれた。[足立の今昔]

●1910(明治43年)08・10 関東地方に豪雨が続き荒川・利根川が氾濫し南足立郡全域浸水。本水害により荒川放水路新削の議おこる。千住大橋は流されなかったが新開橋は中央より折れた。[東京災害史]

★1912(明治45年・大正元年)07・30 明治天皇死去。大正と改元。
★1916(大正5年)10 大正記念道碑が荒川堤に建立。額文は当時の東京都府知事井上友一、碑文は森鴎外。[足立の今昔]
★1921(大正10年) この年、千住町(国道四号線以東の常磐線以西の旧市街地)に東京府の助成により下水道工事着工、1926(大正15年)完成。[南足立郡千住町現状調査]

●1922〜1923(大正11年度) 通常府会で掛け替え工事を提案。大正12年度ないし15年度の3年継続事業として可決。[土木工事画報]

★1923(大正12年)
 9月1日、関東大震災により区内で大きな被害。[東京府大正震災誌]
 この年、国道四号線拡張のための用地買収開始。[足立区近代史年表]

●1923(大正12年)07〜1924(大正13年)05 千住大橋仮橋架設工事。[土木工事画報]

★1924(大正13年)6月、荒川放水路開削工事ほぼ完成し通水始める。[官報]

●1925(大正14年)05 千住大橋掛け替え本工事着手。[土木工事画報]

★1926(大正15年・昭和元年)
 1月28日、東京電灯会社の千住火力発電所完成、送電開始。四本煙突が「お化け煙突」と呼ばれ親しまれた。[東京電力30年史]
 8月、江戸川上水町村組合により金町上水場完成、千住町に給水開始。[足立区議会史]
12月25日、大正天皇没。昭和と改元。

●1926(大正15年) この年、千住大橋の改架工事に着手。[東京府道路要覧]

●1927(昭和2年)12・12 千住大橋架け替え工事完成。開通式。[東京百年史]


出典:絵で見る年表 足立風土記 足立区教育委員会 平成4年03月31
古文書参考図録 柏書房 1979
東京市史稿 橋梁編 第一・第二 東京市 昭和11年11月30日
郷土東京の歴史 北原進 株式会社ぎょうせい 平成11年3月31日
日光街道千住民俗誌 佐々木勝・佐々木美智子 株式会社名著出版 昭和60年10月25日
足立区郷土博物館紀要第7号 特集あだちの歴史散歩展 足立区郷土博物館 1988年11月3日
写真に見る足立の交通誌 足立区郷土博物館 平成7年10月28日
企画展 地域へそそぐ眼差 足立区郷土博物館 平成6年1月15日

2002.05.15.千住・大賑い会