![]() ・・おくのほそ道千住旅立ち・・ |
|
| 千住物語HOME / 千住 / jusinの旅 / 芭蕉の旅 / リンク / 掲示板 |
![]() 発端 月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして、旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予も、いづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂白の思ひやまず、海濱にさすらへ、去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、やゝ年も暮、春立る霞の空に白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取もの手につかず、もゝ引の破をつゞり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松島の月先心にかゝりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、 草の戸も住替る代ぞひなの家 表八句を庵の柱に懸置。 |
|||||||||||||||||||
旅立ち
|
|||||||||||||||||||
千住大橋架橋後95年目のこと。 幕藩体制は落ち着きをみせ犬公方で名高い徳川五代将軍綱義が坐に就いており、町人文化が花開いていた時代。 1594年(文禄3年)徳川家康が千住大橋を架けさせた江戸で最初の橋。 1603年 家康は、天下支配の実権をにぎり,征夷大将軍に任じられて江戸幕府を開く。 1625年 千住宿が日光道中の初宿に指定される。 江戸時代、 昔の旅人にとって千住大橋橋を渡ることは江戸を去る第一歩であり、また江戸入りの第一歩でもあった。 |
|||||||||||||||||||
前途三千里 みちのくという、はるか鄙の果てへの旅路 お伴は 門人曾良明け方の空はおぼろにかすみ 夜が明けても空に残っている月遠くに富士山の姿もほんのりと見える 上野・谷中の桜を 今度はいつ見られることか弟子たちは 前夜から集まり みな船で隅田川をさかのぼり、千住であがりこれからの長い旅の想いで胸がいっぱいなるのでした。幻のようにはかないこの世 一同にわかれつげているあいだにも なみだが頬にあふれてなりません。 行春や鳥啼魚の目は泪 過ぎ去っていく春との別れを悲しんでいるのであろうか、鳥は悲しそうな声で鳴き、魚の目にはなみだがたまっているようだ。見送る人たちは、いつまでもいつまでも芭蕉を見送りました。奥州街道の最初の宿場は千住。この旅の目的地東北は、むかしから陸奥(みちのく)とよばれています。道の奥。この世のはてという意味です。旅の支度は防寒用の紙子(衣服)、ゆかた、雨具、筆墨 剃りあげた坊主頭に墨染めの僧衣姿といういでたちでした。 ![]() |
|||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||
元禄6年1693年 芭蕉50歳の吟。画賛の一句である。 春も漸けしきととのふ月と梅 元禄4年1671年の吟。座右之銘と前書のある一句 人の短をいふ事なかれ 己が長をとく事なかれ ものいえば唇さむし秋の風 (ものいえば くちびるさむし あきのかぜ) 他人に口角泡を飛ばして非をなじったり、自分の優れたことなどしゃべらない、ということを座右の銘としたい、というのである。 芭蕉自身、自分の発言によって、唇さむしと感ずるような生活があっての作句と思われる。そういうことをしたことがあったのだろうか? |
|||||||||||||||||||
| 矢立初の句・・奥の細道出立のときの留別の吟 | |||||||||||||||||||
| ●行く春や鳥啼魚の目は泪 5年間に亘る推敲で入れた句で、当初は「若鮎の白魚送る別れかな」であろうといわれている。 過ぎ去っていく春との別れを悲しんでいるのであろうか、鳥は悲しそうな声でなき、魚の目には涙がたまる。 芭蕉が門人曾良を連れて、奥の細道へ出立したのは、もう初夏らしい日ざしが青若葉葉に照りはえていた。深川から船に乗って、午前十一時ごろ千住にあがった。今の千住大橋の下手のところらしい。千住は奥羽街道の第一の宿場で、道の左右には旅亭や商家が軒を並べ、旅人の往来が絶えなかった。毎朝、近郊の人たちがやってきて、五穀や野菜や川魚などの市が立った。深川から送ってきた親しい人たちとは、ここで別れるのである。前途何千里の思いが胸にふさがって「幻のちまた」に離別の涙をそそぐ 今の旅行と違って、たいへんな決意で出かけたのである このとき作った人々への留別の句が「行く春や・・・」の句である。時はちょうど弥生の終わりであるから惜春の感じを詠み 、惜別の情が重なっている。行く春の別れには、花も涙をそそぎ、鳥も心を驚かすと、杜甫は詩にうたっている。また、崇徳院の歌に「花は根に鳥は古巣に帰るなり」というのがある。この歌は「大菩薩峠」でも、間の山のお玉によって繰り返し哀愁ふかく歌われる。こういう詩や歌をもとにして芭蕉はこの惜春の句を作ったと言うのではない。だが、そういう伝統的な発想が、まったくなかったとも言いきれない。あるいはまた動物たちが啼泣(ていきゅう)している釈迦涅槃図も、芭蕉の意識にあったかも知れない。 ●鮎の子の白魚送る別れかな 芭蕉の発案であったといいわれているこの句は 奥の細道には採用されなかった。 千住まで見送りにきた門弟達を鮎の子に、送られる自分を白魚に見立てた。 ![]() 白魚は旧暦2月ころ産卵のため川を上る成魚、鮎の子は その後3月ころ海から川へさかのぼる若鮎、若鮎が白魚のあとを追う。川辺で別れを惜しむ光景にたとえてる。当時荒川(現隅田川)には白魚がたくさんいたという。 千住の名物としてこの白魚が土地へのあいさつ用語として採用されたとも解釈できる。 |
|||||||||||||||||||
長いこと国会議事堂の憲政記念館に展示されていたが、足立区立中央図書館郷土資料室⇒現在足立区立郷土博物館に安置し、一般公開しています。 ほぼ当身大で、坐像の高さ1メートル、幅1・2メートル奥行き80センチ 作者は、故川崎克氏。俳聖松尾芭蕉の偉業顕彰するため、昭和17年、芭蕉生誕地 三重県伊賀市伊賀上野に俳聖殿が建立された祭に伊賀焼で制作し堂内に安置されました。 これはその副にあたるものです。 三重県伊賀市 俳聖殿・・松尾芭蕉にちなんだ建物
「おくのほそ道」疎竜清書本から ・・・表に・・・ 史跡 おくのほそ道 矢立初の碑 千じゆと云所にて舟をあがれば、 前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに別離の泪をそゝく 行く春や鳥啼魚の目は泪 是を矢立の初として、行道なをすゝまず 人々は途中に立ならびて後ろかげのみゆる迄はと見送なるべし ・・・そして裏に・・・ 江戸時代の俳人、松尾芭蕉の著わした俳文紀行「おくのほそ道」は、日本の古典文学として内外に親しまれている同書によれば、深川を船で出発した芭蕉は旧暦元禄2年(1689)3月27日千住に上陸し旅立っていった千住の河岸には古くから船着場があり、このあたりが上り場であった。千住は、寛永2年(1625)、3代将軍家光のとき、日光道中の初宿に指定され日光・奥州・水戸の各道中の宿駅としてにぎわった街薄暑奥の細道ここよりす 菖蒲園昭和49年10月12日 東京都足立区と記してある ●碑石のデザイン、ディスプレー:安藤義雄氏 昭和48年から文化行政を担当し、奥州路の足立の歴史的な地点に史跡の標識を建てたいと考え、史跡継承事業計画を立案、翌49年度から実施。まずは、千住からと、百数十万円の予算をもって千住大橋北詰めの大橋公園内に「おくのほそ道矢立初の碑」を建立。この碑石の除幕式を文化的イベントとするため、芭蕉忌の10月12日に行った。 ●1689(元禄2年)から『奥の細 道』300年記念 旅立ちの第一歩の足立区は 奥の細道の全行程を示した大看板をかけた。 ●2002(平成14年) 公園内は整備され 碑石の後ろに松が植えられた。 |
|||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||