
千住物語
松尾芭蕉(1644〜94)
自然を愛した詩人 松尾芭蕉 奥の細道など 自然や人生をきびしく見つめ、「わび・さび」を重んじる俳句や連歌の作風を完成した 生の真実をうたいあげるものとするため、解決を旅の中に求め 旅に生き旅に死んだ 真の俳諧文芸の道を深めた俳人 |
| 西暦 せいれき |
年号 ねんごう |
年齢 ねんれい |
事跡 じせき |
| 1594 | 文禄 3 | 9月 隅田川最古の橋 大橋が架けられる(徳川家康の家臣伊奈忠次の指揮) 橋の南北の位置する千住宿は、江戸四宿(千住・品川・板橋・内藤新宿)の中では最大の距離をもち、日光道中の宿場 日光・奥州方面への玄関口として栄えた |
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| 1603 | 徳川家康は 征夷大将軍となって江戸幕府を開いた | ||
| 1623 | 徳川家光が第3代将軍になる | ||
| 1636 | 日光東照宮大造営が完成する | ||
| 1644 | 正保 元 しょうほう |
1 | 伊賀上野の赤坂に松尾与左衛門の次男として生まれ、幼名は金作といった。兄、姉各1人、妹3人 |
| 1656 | 明暦 2 めいれき |
13 | 2月、父が死去した。上野の新七郎家の嫡子、良忠(俳号蝉吟)に仕えていたと考えられる |
| 1660 | 万冶 3 | 両国橋が架けられ 以来 大橋は 千住大橋と呼ばれるようになる | |
| 1664 | 寛文 4 かんぶん |
21 | 佐夜中山集(さよのなかやましゅう)に、松尾宗房の名で発句が二句おさめられている。この文献にあらわれた最初の句である |
| 1666 | 寛文 6 | 23 | 4月 主人の藤堂良忠(とうどよしただ)が死去 京都に遊学し、北村季吟について俳諧の教えをうけた |
| 1672 | 寛文12 | 29 | 正月、30番の句あわせをおこない、「貝おほひ」と題して、伊賀上野の菅原社に奉納した 春、江戸に出て、俳人の杉風や卜尺をたよった。 |
| 1675 | 延宝 3 えんぽう |
32 | 江戸へきた談林派の創始者、西山宗因(にしやまそういん)に会い、その俳席に出席した |
| 1676 | 延宝 4 | 33 | 6月、伊賀上野に帰り、7月、再び江戸へ戻る |
| 1678 | 延宝 6 | 35 | 百韻三巻をおさめた「江戸三吟」を出版。 この頃、生活のために神田上水の工事に関する仕事をしていたらしい |
| 1680 | 延宝 8 | 37 | 冬、杉風の好意で、深川の住みかに移った。 徳川綱吉将軍となる |
| 1681 | 天和 元 てんな |
38 | 春、門人李下(りか)から一株の芭蕉を贈られた。それ以来、住まいは「芭蕉庵」と呼ばれ、俳号も「芭蕉」とあらためられた。 |
| 1682 | 天和 2 | 39 | 12月、駒込大円寺から出火した江戸大火ののため、芭蕉庵が類焼した。この直後、甲斐(山梨県)へ旅だった |
| 1683 | 天和 3 | 40 | 5月、江戸に帰った 6月、母は死去した 冬、門人たちによって、芭蕉庵が再建された |
| 1684 | 貞享 元 じょうきょう |
41 | 8月、門人千里(ちり)とともに旅にたち、伊勢を経て、9月、伊賀上野に帰った。さらに、吉野をたずねたのち、熱田、名古屋にとどまって、連句(「冬の日」)を作った 12月、ふたたび伊賀上野に帰り、越年した |
| 1685 | 貞享 2 | 42 | 2月、伊賀から奈良を経て、京都、近江を歩き、3月の末、熱田に出て甲斐をまわって4月末江戸に帰った 江戸を出てから9ヶ月・・「のざらし紀行」 |
| 1686 | 貞享 3 | 43 | 8月、「春の日」を出版 この年、井原西鶴の「好色五人女」が出版され、また、近松門左衛門の「出世景清」がはじめて上演された |
| 1687 | 貞享 4 | 44 | 8月、門人も曽良、宗波をともない、鹿島(茨城県)に遊んだ・・「鹿島紀行」 |
| 1688 | 元禄 元 | 45 | 2月、伊勢神宮に参拝、杜国とおちあい、上野で亡父のの33回忌をつとめた。 3月19日 杜国とともに上野を出て、吉野山のさくらをたずね、高野山、和歌の浦、奈良をを経て大阪にいたり、さらに須磨、明石に遊んで、四月下旬に京都にはいった・・「笈の小文」 京都で杜国(とこく)とわかれたのち、大垣、岐阜を経て名古屋についた。 8月、門人の越人(えつじん)をともなって名古屋をたち、信州更科の月をみて、善光寺に参り、月末、江戸に帰りついた・・「更科紀行」 9月13日夜 芭蕉庵で月見の会をひらいた |
| 1689 | 元禄 2 | 46 | 3月27日 曽良を伴い、奥の細道の旅に出た。日光、松島、平泉(岩手県)、羽黒山(山形県)、象潟(新潟県)などをめぐり歩いて、7月15日、金沢にはいった。山中温泉に(石川県)で曽良とわかれたのち、8月14日、敦賀で門人の路通と会い、月末に大垣についた・・「奥の細道」(約600里、140日)。さらに伊勢をまわって、9月下旬、伊賀上野に帰った 11月末、路通と京都に出たのち、近江の膳所(ぜぜ)で越年した。 |
| 1690 | 元禄 3 | 47 | 正月、伊賀上野に帰り、3月まで滞在 4月、近江の幻住庵(げんじゅうあん)にはいり、7月までとどまる。名月を大津の儀仲寺(ぎちゅうじ)で見たのち、大津の門人乙州宅(おとくに)で越年した |
| 1691 | 元禄 4 | 48 | 春、一時、伊賀に帰ったが、4月18日から5月4日まで、嵯峨(京都市)の落柿舎(らくししゃ)に滞在・・「嵯峨日記」 7月、門人の去来(きょらい)、凡兆(ぼんちょう)の選により「猿蓑」(さるみの)が出版された 儀仲寺の無名庵(むみょうあんで、中秋の名月を見る会をひらいた 10月末、3年ぶりで江戸に帰った |
| 1692 | 元禄 5 | 49 | 5月、新築した芭蕉庵にはいった。 秋、「閉関の説」を書き、しばらく門をとじて庵にこもった |
| 1694 | 元禄 7 | 51 | 5月 江戸を立ち、鳴海、名古屋を経て伊賀上野に帰った。 閏5月、近江、京都ですごした 6月 寿貞が芭蕉庵で死去した 7月 盆の供養をするため上野に帰って、2ヶ月滞在した 9月8日 上野を立って、奈良を経て大阪に出た。29日から下痢のため病床についた 10月5日、南御堂前に移り、12日午後4時ごろ、門人にみとられて死去した、14日、遺言により、遺体は大津の儀仲寺に葬られた。 |
| 1702 | 元禄15 | 「奥の細道」刊行される |
参考資料:「芭蕉」 偕成社 著者 伊馬春部
道のべの木槿は馬にくはれけり 山路来てなにやらゆかしすみれ草 江戸に帰り 二年半ばかり 静かにものを考える 古池や蛙飛びこむ水のをと 花の雲鐘は上野か浅草か 江戸〜須磨明石という大旅行5ケ月 旅人とわが名呼ばれん初しぐれ 旅人になりきりたいという芭蕉の心持が表われている 笈の小文の帰り京都〜名古屋をまわって、8月にはまた名月を見ようと、木曽路にを上って信州更科に姨捨山へ行き、長野から浅間山のふもとを通って江戸へ戻っています。でも この年の年末には次の旅をこころざしていました まだ 本当の旅になっていないと感じたのです。行く先々で門弟達の歓迎を受けました。こんな楽な旅をしていては、自分の人間修行、文芸修行にはならないと考え、今度こそ、まことの旅をしよう。ふつうの生き方の一切を捨て、人間としてのまことの心を保って旅をいく。そこにこそ、自然と人生の中に秘められた真実が見えてくるのだ。真の文学はそのような心から生まれるのだ」と考えたのです。 芭蕉庵〜大垣 フィクションを加え文学的な再構成がされている。文体は漢語を交え、力強く簡潔で、よく旅中の情景が書き尽くされている。 文中の50の発句は、蕉風の円熟期を代表するといわれる。 |